・小糸川の水運について

八千代橋の上より見た川舟(左の写真)大正初期撮影 

                     小糸川の水運について

 小糸川の水運は慶長年間に始まり (小糸に残る最も古い旧記は慶長十八年.1613年) 大正十二年九月の関東大震災を期に姿を消して行きました。
慶長十八年は二代将軍秀忠の時で、幕府の基礎は固まり、行政機関も整って来た時代であり、年貢米輸送
と共に江戸庶民の生活必需品確保の手段として、大量輸送の出来る舟が利用されるようになったと思われます、江戸まで海上13里半五大力船に積み替えられた物資はぞくぞくと江戸庶民のもとに届けられました。


<小糸川舟に関する記述>
 小糸川は、養老、小櫃に次ぐ小河川で水量は少なく流れは速いので平水に於いては通船に適した川ではない、そこで上流、清和粟倉地先で川をせき止め、一気に放流してその水勢にて舟やいかだを流した、或いは、大水気と言って降雨による増水を利用する等の方法が取られた荷物を積み込む場所を河岸と言った。河岸は積み込みに都合のよい所各所に設けられたようである。調査により、三十ケ所の河岸が確認されており、一番上流の河岸は間並河岸と言う。間並河岸より上流の清和地区は川床が、岩盤で且つ急流である為舟運送には適さず河岸はなかった。しかし林産物が多かった為木材や竹の筏にして流した。                                                  さて、舟は三〜四人乗りで、荷物を積んだ舟は一日で大和田又は大堀の河岸に着くものの、荷物を降ろしての帰りは人力で綱道を曳いて帰る。釜神または籾山あたりで泊まり、数日かけて舟主の家に到着したようだ。                                         舟を曳く道を綱道とといって、川の両岸に或いは地形により片側になったり、道のつけられない場所は川の中を曳いたりで、水面から2〜3b位の高さの所についていた。舟を曳くことは大変な重労働で小糸町史には 「身をこごめて綱を曳きながら絶えず叫び声をあげる、川沿いの藪の中から聞こえてくるこの声で、人々は遠くから川舟の上がってくるのが分かった、一人がキャーコラ.コラ.コラ.と叫ぶとちょっと間をおいて他の一人が同じように続ける、それはこの世における最も激しい労働の悲哀を叫んでいる趣があった。」 と表現している。人夫の中には諸国を渡り歩いた人もいたようで、舟によって相違があってかけ声についても一定ではなかったようだ。