徳川幕政下のこいとの村と住人生活(小糸町史より)

  根本村の名主、長兵衛は、君津郡誌を書かれた国樹先生の数代前の方であるが、その、享和二年(西暦1802)に書かれた年貢米の
割り付けに対する、皆済目録によると、年貢はまず村に対して割り付けられ、村を以て納税者としたのである。割り付けを受けた村々で
は、各戸の水帳石高に応じて各戸に年貢を割り付け、又、単に租税ばかりでなく、夫役を申しつけられる場合も何村から何人役とか、
何村から馬何匹、というように割り付けられたのである。
 このように村を以て一個の人格所有者(法人)と見なし、これに対して政治を行い、且つ納税上の義務を負わしめた事は、村人の団結
心を強固にしたとともに、いつも小さく村にとじこもる所詮、部落根性を培うものでもあった。
 村の生因については、学者は、開発新田村・隠遁百姓村・寺百姓村・豪族屋敷村・名田百姓村・古代成立村・の六種をあげているが
小糸の村々は殆どが古代成立村の部類に入るであろう。しかし、明らかに、隠遁百姓村と思われる村々も数村あるが、それは重税から
逃れるために逃げ込んだものとは違って、戦国時代の敗戦の落ち武者が開発したものである。
 この皆済目録差出人の一人に、名主・谷中長兵衛とあることから、名字帯刀を許されていたと思われる。
 徳川時代、幕府はなるべく農村を農村として純粋に保とうとして、原則には商売人の居住を許さなかった、しかし、百戸、二百戸の大村
では、職人、商人、僧侶、山伏等もわずかにいたようだが、武士の農村居住は認めておらず、地方凡例禄には、武士の浪人たりとも、決
して名字帯刀は不相成こと也、又、何程由緒正しく、先祖は高貴の末葉たりとも、民間に落ちては名字帯刀決して不相成、とある程で、
名主の名字帯刀は当時にあっては破格の表彰だったのである。
 この皆済目録によると、これらの年貢米は皆川舟で小糸川を利用して大堀に送られ、そこで海船に載せられて江戸へ運ばれている
ただ、この船賃は百姓の負担であったらしく、川舟を利用しない長石村などは馬の背で木更津の貝渕まで運ばされた、当時の道は八重
原団地の裏山の背づたいの細い道で、この運搬の苦労は大変だったと記されている。
 当時年貢の額を決定する方法として[地方凡例録]によると、毎年検見役が来て、村中の上級、中、下、の三種の
田について、各坪刈りをし、これを標準として全収穫を見積もり租額を決定したものであった。
基本的には、五公五民で五分を上納したものの、江戸迄の搬送費は各村持ち、又、搬送途中の腐敗他の商品トラブル
等の諸経費も村持ちであり、実際は六公四民で、四分が手元に残れば上出来であった。
従来は籾で上納していたものが、徳川期になると玄米にて上納となりその点にても租率増加が見られる。

こいと発見にもどる

COPYRIGHT(C) 一般社団法人 こいと ALL RIGHTS RESERVED