北条氏の滅亡と里見氏の末路(小糸町史より)

  天正十八年(西暦1590・元号早見表)北条氏政と弟の氏照は豊臣秀吉に滅ぼされ北条氏は滅亡した。
長年、北条と敵対関係にあった里見氏は、秀吉の同盟軍として援軍を送る手はずになっていた、しかし、著しく援軍が遅れた、秀吉が
石垣山に到着しても、大将の里見義康はまだやっと三浦半島のあたりをうろついていた。そのため、秀吉は里見義康の遅参を怒り、
上総の国を没収して、安房一石だけが里見氏に残された、同時にそのとき論功のあった徳川家康に、安房を除く関東が与えられた、
この時から、明治維新まで二百七十八年間、わが小糸の各村々は徳川氏の支配下に置かれる事になったのである。
 房総治乱記によると、時の近隣最後の城主は、周准郡小糸城主・斎藤大和守正房、望蛇郡久留里城主・土屋民部蒸葉政、
天羽郡佐貫城主・大河内左京一久とあり、他に十五の城と城主があげられている。
 里見氏の活動の基盤であり、また収入の源だった領土は、最盛期には、安房九万石、上総三十六万石、下総十万石と計五十七万国
それに、三浦半島に若干あり総計六十万石程で、上総がその主たるものであった。
 この後、里見義康は関ヶ原で徳川方につき、東北鎮定の功で常陸の国鹿島郡に三万石を与えられ、三十一歳の若さで没した後を
その子、千寿丸が継ぎ、千寿丸は徳川秀忠の前で元服して、安房の守に任ぜられ忠義と称した。

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