こいとの歴史 糠田郷と糠田部の千麻呂(小糸町史より)

  今残っている文書のうえで、小糸の地名がはっきり現れるのは、奈良朝になってからである。当時、糠田郷の糠田部千麻呂が、麻布
を中央政府に納めた事が正倉院に伝えられている。布の端に[金光明寺封上総国周淮郡周淮郷糠田部戸主糠田部千麻呂]と書きこ
まれている。和名抄に依ると、当時上総の国は十一郡に分かれ、郷七十五更に部と分かれる、小糸の原が低湿であったことはいまの
地名からも想像される。大井戸とか大井、泉のように水に縁の深い地名から農耕に便利であったことがわかる。中島、糠田はその後上
総堀の発祥の地となった事からも、地下水が近く農耕に便利であったにちがいない、こうした平地の真ん中にこの地方の中心となる集
落が次第に形成されていった。もう、奈良朝中期にはかなり村としての形を整えて来たのである。
 大化の改新によって百姓は口分田を受ける事になった。凡そ口分田をうけるのは男子一人ごとに二段、女子は二段の三分の二で、
五歳以下は付与されない。一人の男子は五石の稲を収穫して、租税として二斗二升の米を政府に納めたのである。

防人物部の竜(小糸町史より)

 今から、凡そ千二百二十年の昔、天平勝宝七年もまだ春寒い日、鹿能山麓のあばらやから、出かけていった一人の若者がある。身な
りも貧しく、弓矢と少しばかりの食料袋をかついだ彼は、あずまの諸国からかり出された農民出身のにわか兵士の一人である。これから
一ヶ月以上の旅路を重ねて、遠く九州の辺地までやられ、国家防衛の為、防人(さきもり)となるのである。
【大君のいのちかしこみ出で来れば我ぬとりつ来て言いし子なはも】 周淮郡上丁  物部の竜(たち)
上記の歌は万葉集巻二十に採録されている歌である。
(天皇陛下の御命令で、為方なく家を出てきたとき、私に縋り付いて、悲しい言葉を繰り返し言う、いとしい人よ)(折口信夫 口語訳)
周淮郡とあるばかりなので、これが小糸の人であると言えないが上丁は、かみつよぼろと読み、二十一歳から六十歳真での男で、朝廷
の課役に出たものであるから、物部の竜がこの地から遠く九州まで一兵士としてとられて行った時の歌であろう。

小糸と藤原鎌足(小糸町史より)

 蘇我入鹿を太極殿に斬ってから、中大兄皇子を助けた中臣鎌足は小糸にもいろいろの伝説を残して居る。鎌滝の地名は昔滝山にあっ
た滝に少年の頃の鎌足が打たれて遊んだ事から生まれて来たといわれる。鎌滝の高照院には鎌足が幼少に用いたという遺物が幾点
か残されている。根本には鎌足桜という大樹がごく最近まであり、鎌足が植えたものだといわれ、永く美しい花を咲かせていた。
 小糸から山一つ向こうの矢那の高倉観音堂にも鎌足の伝説がある、鎌足は矢那の生まれで、その母親が根本又は鎌滝から嫁ぎ、幼
時母の生家にしばしばきてこれらの伝説を残したということになりそうである。又、元享釈書によると、鎌足は和州高市郡の人とあるが、
歴史上有名人物で一番出生地のはっきりしない人である。それだけに、いつかこの地から出た人であることが、立証されないものでもあ
るまい。

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