今残っている文書のうえで、小糸の地名がはっきり現れるのは、奈良朝になってからである。当時、糠田郷の糠田部千麻呂が、麻布 |
を中央政府に納めた事が正倉院に伝えられている。布の端に[金光明寺封上総国周淮郡周淮郷糠田部戸主糠田部千麻呂]と書きこ |
まれている。和名抄に依ると、当時上総の国は十一郡に分かれ、郷七十五更に部と分かれる、小糸の原が低湿であったことはいまの |
地名からも想像される。大井戸とか大井、泉のように水に縁の深い地名から農耕に便利であったことがわかる。中島、糠田はその後上 |
総堀の発祥の地となった事からも、地下水が近く農耕に便利であったにちがいない、こうした平地の真ん中にこの地方の中心となる集 |
落が次第に形成されていった。もう、奈良朝中期にはかなり村としての形を整えて来たのである。 |
大化の改新によって百姓は口分田を受ける事になった。凡そ口分田をうけるのは男子一人ごとに二段、女子は二段の三分の二で、 |
五歳以下は付与されない。一人の男子は五石の稲を収穫して、租税として二斗二升の米を政府に納めたのである。 |