旧八重原村の平野幾次郎氏所蔵の古写本、久留里戦記によると、天文四年に、小田原の北条勢が里見義堯を久留里城に攻めようと |
して、小糸の泉の地を経て中島から糠田、行馬あたりで里見方と戦った事を記しているという。今、現に糠田の原には首塚、鎧塚という塚 |
もあり、その他、地名や堂の名称などから推し量っても、里見や北条方の武将達が、旧行政センターあたりから行馬の川田辺にかけて |
死闘をくりひろげた事があったとしても不思議ではあるまい。 |
まず天文四年という時期について、その前後の事を検証すると、天文三年四月には里見義堯は父の仇を報ぜんととして犬掛(安房郡 |
富山町)で義豊軍と決戦を交えて大勝し義豊を稲村城(安房郡三芳村)に追い詰めて自殺に至らせている。これまでは里見北条の間は |
親密で、北条氏綱の鶴ヶ丘の造営に里見は農民をやって境内の造庭を手伝わせたりしている記録もあるが、そのご一転して両者の関係 |
は険悪となり、天文七年十月には国府台で総力をあげて戦っている記録もあり、当時の状況からおして、天文四年の糠田合戦もあり得 |
ない事ではあるまい。 |
江戸慶長見聞集によると、当時の里見、北条は常時交戦状態にあり、『両家の盛りなりし頃、たがひに軍船は三浦三崎に舟をかけおく |
里見の海賊、ある時は一艘二艘にて夜中に渡海して、浜辺の在所をさわがし、.........』と、北条方から見れば里見憎し。 |
一方、里見方から見た里見代々記には、『海上に軍船か乱妨取りの船など見来らば合図の太鼓を打て、百姓、町人、海人等に限らず |
財宝、妻子を山野に隠し置き、近辺出会い追い散らし、打ち殺せと仰せつけられ、......』とあり、お互い、海をはさんでの盗賊行為は |
時には激しく、大群を連れて攻め込む事もあった様で、何回となく無益な闘争が繰り返されていたのである。 |
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