上総掘り発祥の地は千葉県君津市の小櫃地区と小糸地区だといわれているが、どちらであったのかは分かっていない。小櫃地区は小櫃川の、小糸地区は小糸川のそれぞれ中流域にあたり、飲料水・農業用水の確保が困難な場所であった。そこで、より良い水を得る手段の一つとして井戸掘り技術の開発がすすめられた。
小糸川中流域の小糸地区の鑿井業は、文化14(1817)年に糠田村(現:君津市糠田)の池田久蔵(いけだきゅうぞう)が始めたとされている。池田家の鑿井業は、久蔵から孫の池田久吉(いけだきゅうきち)に、そして久吉から親戚の池田徳蔵(いけだとくぞう)に受け継がれて明治時代を迎える。当時の井戸掘りは大阪掘り(梯子と梃子を使用して鉄棒を突き落とす工法)で行っていたが、大阪掘りでは十分な水を確保することができなかったため、久吉と徳蔵は技術改良をすすめていく。久吉は、明治15(1882)年に鉄棒の代わりに樫の木の棒を使ったカシボウを考案し、深さ60〜70間(約108〜126cm)までの掘削を可能にした。徳蔵は、明治19(1886)年に木棒の先に節を抜いた竹と金具を取り付けて、小櫃地区で掘削を試みている。
池田家の井戸掘り技術は石井峯次郎(いしいみねじろう)に受け継がれて、更に技術改良がすすめられていく。
明治2(1869)年〜昭和8(1933)年10月3日、君津市上出身
明治18(1885)年頃から池田徳蔵に師事。明治19(1886)年にハネギ(弾木)を考案したとされる。
自著『上総式温泉掘鑿の栞』に、明治21(1888)年頃に独立して石井組を設立し、独立後は省力化を研究して明治28年5月に上総掘りを完成させたと記している。
峯次郎の営業範囲は地元だけでなく、鹿児島県・長野県軽井沢・北海道・台湾など広い範囲に及んでいる。
また、一時期は15名以上の職人を雇い、動力掘りも行うなど、1名〜数名の零細事業者が多かった君津地域の鑿井業界のなかでは、優秀な起業家であったち評価できよう。
峯次郎が地元で掘った井戸としては、君津市上の灌漑用井戸(1909年3月)、六手八幡神社東脇の灌漑用井戸(1915年3月)、六手灌漑用井戸第2号井(1927年)、富津市大堀のホテル静養園の石油試掘用井戸(昭和時代初期)がある。
ホテル静養園の石油試掘用井戸は、昭和6(1931)年頃には深さ650間(約1,170m)まで達した西上総地域最深の上総掘り井戸であった。
峯次郎の没後、石油試掘井戸の掘削は他の者が引き継ぎ、昭和14(1939)年頃には深さ1,300mまで達したが、昭和16(1941)年頃に温泉が激しく噴出して埋没してしまった。
明治10(1887)年6月3日〜昭和32(1957)年8月19日、君津市中島出身
元々は農業を営んでいたが、大正4(1915)年に妻ゆきを亡くして以来、上総掘りに生きがいを感じるようになる。実弟の大野保三も上総掘り職人であったが、大野兄弟が誰から上総掘りの技術を習得したのかは不明である。
大野丑之助が手がけた井戸としては、六手の大古家の飲料用井戸(大正時代初期)、六手字根岸下の灌漑用井戸(1917年1月)、六手灌漑用井戸第2号井(1928年5月)が知られている。六手第2号井は自噴量が非常に多く、現在でも君津市の水道に使用されている。
資料提供: 袖ヶ浦郷土博物館 能城 秀喜氏